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忌中になぜ神社参拝をしてはイケないのか?じゃすイズム的理解とは。

 2018/03/08 こころ じかん この記事は約 6 分で読めます。

こんばんは、じゃすです。母が他界したのは2018年2月25日でした。今回実の娘として初めて親を亡くした経験をしました。そして、これまでよくわかっていなかった真実が浮かび上がってきました。

それはわたしには仏教と神道の両面から見る必要性があったということです。なぜなら、父方の祖父が曹洞宗の僧侶であったこと。そして母方の祖父が天理教を信仰していたからです。

葬儀の時伯父に聞きますと、天理教は戦争から帰った祖父の道楽でもあったようです。物静かな祖父は会合や旅行を楽しみにしていたのだとか。

以前から母方の実家が天理教だとは知っていたのですが、まさかそれが神道だったとは今年2018年になってようやくわかったわたし。天理教は【教】といくので、子供心に仏教の一つだと安易に解釈していたのが間違いでした。

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ちなみに分家で核家族だった父親の代からは完全な無宗教です。だからわたしの家族ではお宮参りや七五三には神社に行き、お墓参りをし、クリスマスを祝い、お葬式は仏教でといった日本の一般的なやり方で育ちました。

今回母のお葬式は天理教でも曹洞宗でもなく、葬儀場が手配した地元のお寺から僧侶がきておこなったようです。前置きが長くなりましたが、わたしにはそういった背景がありますことを最初にお話しておきます。

今回母の葬儀から学びや気づきが多くありましたので、備忘録として書き留めておきます。第一弾は【忌中の神社参拝について】です。現在のネット上には載っていない、じゃすイズム的見解を書きますね。

まずは忌中と喪中から

ごっちゃになってしまっているかたのために整理しますと、忌中(きちゅう)と喪中(もちゅう)は違いますので、まずはそこのポイントを抑えてください。ご存知のかたはここはスルーして結構です。

自分の父母の場合
■忌中=亡くなった日から仏教では49日。神道では50日。それを過ぎたら忌明け(きあけ)という。
■喪中=亡くなった日から1年間。(浄土真宗を除く仏教神道共に1年)

自分との関係性が兄弟や子供などに変わると忌中の日数も変わってきます。そして喪中は1年間ですが、宗教や宗派によって概念も変わってきますのでそれぞれで確認が必要です。

仏教における四十九日とは

子供の頃母から閻魔大王(えんまだいおう)さまのお話を聞いたことがあります。亡くなってから49日後に閻魔大王の審判が下るというのです。そこで天国行きか地獄行きが決まるという何とも恐ろしい重要な日という印象でした。

ここからはわたしの考えですが、閻魔大王のお裁きが下されるまでの49日間は意識の存在として、肉体を離れ、フワフワと時間空間関係なしにどこへでも行けるのではないかと思います。

闘病生活が長かった人にとっては、死ぬことで重たかった肉体から抜けることができ、これまでの疲れを癒やしながらやりたかったことや行きたかったこと、過去に起きたことで確認しておきたかったことなど、この世での思いを一つ一つ片付ける期間なのかなと思います。

神道における五十日祭とは

仏教の四十九日にあたるのが神道の五十日祭ということで、この日をさかいに神の世界に戻るようです。一部の情報では死んで50日後に神になると書いているものもありますが、わたしが思いますに神にはならないでしょう。

神になれたらもう生まれ変わることもないわけですから、母も含めて普通の人はこの世でやり残したことや成就しなかった思いをリベンジすべく、また生まれ変わって新しい人生をスタートするのだと思います。それがすなわち輪廻転生なのだと思います。

50日経って神になるというよりも、神の元に帰るとか、戻るというのがしっくり来る感じがします。(あくまでそんな気がするというレベルです。)

葬儀は膨大なエネルギー消費

神道では死は穢れ(けがれ)というそうです。これは汚れているとか不浄だとかではなく、単に気枯れ=気が枯れている=気が弱っているということ。

すなわち、エネルギーが弱っていますよという意味だとわたしは理解します。今回通夜、葬儀に参列してみてあらためて感じたのが、通常では考えられないほどの大きなエネルギーが動いている場であることでした。

私自身、サイキックとか霊感とかあるわけではありませんが、目に見えない大きなエネルギーが火葬場も含めて斎場で動いていたという印象です。

それは人々のさまざまな思いであったり、行動であったり、お金や品物であっても感じ取れました。日常生活では感じることがない膨大なエネルギーが、人一人の死によって数日間に渡り動き続けるのだということ。

だから親族でなくとも人の通夜葬儀に参列した後はどっと疲れますし、遺族ともなればその疲れは半端ないのです。ということはエネルギー消耗が想像以上に激しいということ。

イコール気が枯れる、けがれとなるのも納得です。

忌中(五十日祭前)に神社参拝をしない

昨年熊野詣をした時に教わったことに【神社参拝においてお願い事をしない】がありました。本来神社は、すがりお願い申すところではないそうです。

むしろこちらのエネルギーをお届けするところである。そうわたしのメンターは教えてくださいました。ということは、神社に出向く時には万全の体調、万全のコンデションであることが望ましいわけで、でなければエネルギーを差し出すことなんかできませんよね。

ちなみに、神社境内には人々が置いていった不浄な念もいっぱいあるそうです。万全なコンデションでない者が不用意に行くと貰ってきてしまう(憑かれてしまう=疲れる)そうです。
(特に夕方以降の時間帯に神社参りをするのはやめておいたほうが身のためです。お気をつけください。)

身内の葬儀を終え、自分のエネルギーがカツカツな状態において神社参りをすべきではないというのが納得できました。50日間はマイナスになってしまったエネルギー充電に務めるのがいいなと思った次第です。

じゃすイズム的:忌中の過ごし方

楽しみの一つである地元神社の参拝もおあずけとなった50日(忌中)は、そう過ごせば良いのか?数日間それを考えていました。

  • 心を整える
  • 住まいを整える
  • 食事を整える
  • 体調を整える
  • *金銭面を整える
  • 断捨離をする
  • 未完了を完了する
  • 次なる準備をする

【*金銭面を整える=お金もエネルギーの一つという捉え方です】

ざっと上げてみましたが、これって子宮筋腫で子宮摘出手術をして退院した後の暮らしと同じようだなと思いました。長い入院生活の後退院し、体も思うように動けないリハビリ期間にどう過ごすのか?と困っていた時に、友達がこんな助言をしてくれました。

【そういう時にこそ、勉強するのよ】と。読みたいと思っていた本を読んだり、学びたいと思っていた学びを深めたりができる絶好のチャンスよと言ったのです。

気が枯れるほどの人生の節目であった親の死。この50日間を悲しみに暮れて泣き通すのか?はたまた次なる準備と捉えて整え学びを深めるのか?

晴れて忌明けとなった日に新しい自分が神社参拝をし、神を前にして何を宣言するのか?そんなことを思いながら、一日一日を大切に過ごそうと思っています。

今日もお付き合い頂きありがとうございます。

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