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じゃすのプロフィール

2018.3.11更新
「じゃす」と申します。静岡県出身、関西在住。
1967年生まれで、今年51歳になろうとしています。
41歳で子宮筋腫悪化による子宮摘出手術をし、
その翌年からseesaa子宮筋腫ブログを開始。

2017年12月、静岡から関西に引越しました。

普段の生活は、
お散歩したり
自炊をしたり
お仕事したり
学んだり
誰かとおしゃべりしたりしています。

一見普通の主婦のようで、
わかるかたからは、
「筋金入りの不思議ちゃん」
と言われています。笑

かなりの変わり者ということなので、
実の親にも
じゃすのことはよくわからない
と思われています。
(実家でもじゃすと呼ばれてます)

それで周りもですが
じゃす自身も長年苦しんできました。
人と物の見方や考え方がなぜ違うのだろうと。

住まいが点々と変わった幼少期

父親の仕事の都合により、
幼少期は引越しばかりでした。

幼稚園は3回変わりました。

けれども、どの幼稚園に行っても
すぐにお友達を作って
最初からいたかのように
違和感なく馴染んでいました。

当時の写真を見ますと、
いつでも皆の中心に写っていて
新入りとは思えない存在だったようです。

最初の転機は5歳の時

2か所の幼稚園を経て
最後の幼稚園で年中組となった
5歳半の11月9日。

母が夜間の自動車学校へ行ってる留守に
じゃすは大やけどを負ったのです。

その頃の住まいは
父の弟(叔父)家族の家で仮住まい中。

隣町に新築の一軒家を建築中でした。

父が社長で仮住まいでも従業員の方々が一緒に
共同生活をしていました。

母が外出の為、
あらかじめ作っておいた夕食を
皆で食べていました。

叔母が気を利かせ、
御飯の量が足りないかもしれないと
従業員用にお雑煮を
大量に作りました。

お雑煮がグツグツと出来上がり、
その大鍋をリビングに運ぶ途中
廊下で妹や従妹と遊んでいた
じゃすとぶつかったのです。

その時の叔母は
鍋掴みもタオルも使わずに
熱い大鍋を素手で持ち、
「熱っ!そこ、どいて~!」
と言いながら運んできたのでした。

結果、煮えたぎる大量のお雑煮を
じゃすは頭からかぶってしましました。

その時の記憶は
熱いというよりも痛い!
という感じでした。

(今思い出すだけでも
気分が悪くなる話です。)

驚いた父は、じゃすをお風呂場に連れていき
真冬にもかかわらず水をぶっかけて
服を脱がせたそうです。

そこからどうなったのかは
よくわかりません。。。。

母が病院に駆けつけると、
全身に包帯を巻いた私がいたそうです。

父が暴走してくれた!

大やけどを負ったじゃすは
地元の救急病院へ。

大人がやけどを負った場合、
身体全体の1/3を火傷すると
皮膚呼吸ができなくなり
死に至ると言われているそうです。

子供ですと、身体全体の1/4。

じゃすの場合は5歳で、
身体のほぼ1/3を火傷していたそうです。

医師は首を横に振り、
「もうこの子には手の施しようがありません」

それを聞いて、
「はいそうですか。」
と納得する親はどこにもいません。

当然ながら父親は
私の命を救うべく動いたそうです。

同じ静岡県に住む叔母の地域に
やけど専門医がいるとの情報を得た父は、
医師の静止を振り切って
自家用車の助手席にじゃすを寝かせ
(絶対安静の状態にもかかわらずです)
1時間以上車を走らせました。

着いた先のやけど専門病院でも父は
医師から相当怒られたそうです。

「あれほど連れてきてはダメだといっただろ!」

後から思うと、父が無鉄砲で良かった。
そのおかげで今もじゃすは生きている。
何度感謝したかしれません。

どれだけ優秀な医師が何を言おうがお構いなし。
何が何でも娘の命を救うのだと
無我夢中で車を走らせた父親・・・。

父はじゃすの命の恩人なのです。

「東洋医学」や「手かざし」に出会う

無理やり運ばれた「やけど専門病院」は
中国人?台湾人?定かではありませんが
東洋人の医師が営んでいました。

医師が独自に開発した火傷の軟膏を
患部にたっぷりと塗っていきます。

火傷の熱を取る働きもあるので
めちゃくちゃ軟膏が冷えています。

冷たい軟膏を身体に塗ることで、
小さな体は寒くてブルブル震えました。

ガーゼで覆って、包帯を巻いて
また翌日それを剥がし、
再度軟膏を塗るの繰り返し。

ガーゼを取るのが張り付いていて
思いのほか痛く、更に痛かったのは
前日に塗った軟膏を取り除いて
そこにかさぶたができているので、
それを容赦なくピンセットで剥がされます。
治りかかったところを剥がされる。
当然血がにじみ出ます。

これも耐え難い痛さ・・・。

今思い返すと、この地点で
冷えと痛みに極端に弱い自分が形成されたのかなと。

痛い後には猛烈な痒みが

しばらく軟膏を塗って剥がしてを続けてきますと、
やがて皮膚は痒みを感じてきます。

治ろうとする時に感じる、
あの痒みが全身を襲ってきたのです。

けれども再生してきた皮膚を
搔きむしることで、またかさぶたができてしまう。

それを防ぐには、只々痒みを我慢するしかない。

人間、痛いのを我慢するのもつらいですけど、
痒みを我慢するのも本当につらいものです。

5歳で我慢しろというのも酷だったなと思います。

寝ている時に無意識に掻いてしまうため、
ベッドごと体を縄で縛りつけられて眠りました。
気がおかしくなりそうでした。

それは付き添っていた母も同じだったと思います。

そんな拷問レベルの入院生活の甲斐あって、
やけどのジクジクは綺麗に改善され、
新しい皮膚が再生してきました。

オバサンの手から氣が

退院したじゃすに当事者だった叔母も何かしたかったのでしょう。
「手かざし」と呼ばれる、掌から出ている氣を当てる
不思議なあるオバサンに会ってほしいと提案してきました。

じゃすはただお座布団に座っているだけで
そのオバサンがじゃすの患部に手をかざしていきました。
正直、特に感じるものはなかったのですが
これで叔母の気が収まるのならと
毎週土曜日に施術を受けていました。

手かざしが終わった後に、毎回黒飴をもらいました。
今でも黒飴を舐めると手かざしを思い出します。

こうして大火傷を負ったじゃすは
人生最初の東洋医学と不思議な民間療法的なものを
体感したのでした。

いじめられた小学校低学年時代

我が家の持ち家が完成したので、
引越し続きだった暮らしは小学校入学と同時に安住しました。

けれども地元以外の幼稚園からの入学でしたから
小学校1年生から転校生のような立ち位置でした。

火傷の傷は癒えないまま、よそ者として入った小学校。
身体も本調子ではないし、幼稚園とは勝手が違って
何もかもがなじめませんでした。

食も細くなっていたので、給食も苦手。
好き嫌いも激しくなり、
いつも体がだるいし、しょっちゅう「ものもらい」が
右目にできて眼帯をしていましたね。

夏のプールも最悪でした。

火傷の箇所を日焼けさせないように
水着の上からTシャツを着て泳ぎました。

みんなと違う姿でいじめられました。

人目も気になりましたし、Tシャツが濡れて
何より泳ぎにくいんです。(当然ですね)

水も怖いし、泳げないダメな自分を作ってしまいました。
けれどもそんな暗い生活も小学2年生まで。

3年生になると、明るい親友ができたおかげで
そこからは火傷の傷があっても忘れるほどに
毎日楽しく過ごせました。

中学校でまた大きな出来事

小学3年生で出会った明るい親友の誘いもあり、
中学校では剣道部に入りました。

小学校時代、スポ少で剣道をしていたので
特にやりたいわけじゃなかったけれど入りました。

その他に日舞や書道もやっていたので、
どちらかというと日本文化系の部活に入りたかったのに、
友達がどうしても一緒にやってというので
ガリガリに痩せている体型にも関わらず
剣道部に入ってしまったわけです。

痩せ体型で体力がないじゃすが、剣道部とは!
しかも新任の先生が超スパルタで、
目標は「全国大会出場」というではありませんか。

正直、入部は失敗だったなと後悔しました。

剣道部、2年後の結果は

辞めるに辞められない剣道部でしたが、
結果は2年生の東海4県大会で優勝。

相手は全員3年生という中で、
「田舎のポッと出」の女子中学生、
じゃすを含む3人組チームの優勝でした。

毎日血のにじむ練習の成果でした。
3人のメンバーの一人は、生理が止まったり
男子の中では血尿が出たりと凄まじい部活でした。

翌年の同じ大会は3年生として、
当然の優勝を期待されます。

前年に2年生テームの分際で3年生に勝ってきたじゃす達3人。
当然ながら各校はマークし、研究し尽くして挑んできます。

けれども2年連続、同じメンバーで再度優勝できました。

一瞬、時が止まった県大会決勝戦

全国大会出場の切符がかかった静岡県大会決勝戦。
じゃすの勝敗で、日本武道館に行けるかどうかでした。

今思うと、あの時が人生でただ一度だけ
時間が止まった瞬間を体験したのだと思います。

会場がしんと静まり返った決勝戦。

全員がじゃすの一挙手一投足に注目していました。
相手の一瞬のスキを捉えたじゃすは、
無意識に体が動いて、得意技の小手を取りました。

一本取った瞬間、不思議な感覚でした。
何も聞こえない、時間が止まった空間・・・。

その後の祝賀会で、これまでどんなに頑張っても
一度も褒められたことがなかった恩師から
「あの一本は100万円以上の価値がある」と言われました。

当時のお金で100万円は、当然今より価値が高いはずですが
これが恩師からの最大の褒め言葉でした。

試合を見ていた父兄からも、
「(じゃす)ちゃんの決勝戦で一瞬、時間が止まったよね」と
いう人もいました。

飛び上がって喜んだ人、
手と足で同時に拍手して叫んだ人、
思わず合掌して涙した人・・・

いろんなシーンを眺めながら、
じゃすは感動して泣きじゃくっていました。

剣道部に入って辞めたいとか失敗したなとか、
それがいい意味で叶わず、
結果として貴重な成功体験ができました。

結婚してから子宮筋腫を発症

28歳で結婚し、
30歳で子宮筋腫と診断されました。

夫とは13歳で出会いました。
中学校剣道部の1年先輩でした。
中学1年生から交際し、将来結婚の約束もしました。

その大好きな先輩と15年の交際を経て
念願のお嫁さんになれたのもわずか。

結婚後数年で別居生活になりました。
夫が出て行って、たった一人で暮らした2年間は
まさに地獄の毎日でしたね。

一生分泣いたんじゃないかってほど、
毎日毎日泣き通しでした。

眠れない日々が続いたある日、
早朝の外を歩いてみました。

コンビニの前を通りかかると、
既に働いている人の姿が。

「そうだ、泣いていないで働こう。」

結婚後は専業主婦になるのが当たり前と思っていたじゃすは
仕事をするという概念が無かった。

今の時代では考えられませんが、当時のじゃすは
母が家にいたように、外で働く発想がなかったんです。

夫の収入が良かったせいもあって、金銭的不自由もなければ
時間的不自由も全くなかった専業主婦時代。

夫の上司や部下を呼んだり、実家の家族を呼んで、
頻繁にホームパーティをしていました。

広いリビングがある物件に引っ越しました。

インテリアにも凝って、家具を配置
大きな一枚板のパーティ用テーブルも特注で作りました。

じゃすが作った自慢のお料理やスイーツを並べて
最後の〆は夫が挽いた豆で淹れる
こだわりのコーヒーでした。

パン作りやお菓子作りにもハマって、
ことあるごとに友人知人にプレゼントしていました。

休日は図書館に行ったりガーデニングをしたり、
夫と旅行やショッピングなど
まさに絵に描いたような幸せな毎日。

周りの誰もがうらやむ生活でしたが、
じゃす本人はどこか空しい、無性に寂しい
そんな気分で心が満たされることはありませんでした。

欲しいものは何でも買ってくれる夫。
迷ったら全部買いなさいという夫。
俺のものは全部お前のものだよという夫。

13歳で出会って、本気で好きになって
この人がいないと生きていけないと思っていた夫が
ある日突然、家に帰ってこなくなったのは
2001年8月1日のことでした。

シアワセ奥様から地獄へ転落

20名以上を呼んでホームパーティをしていた
広いリビングも、デカすぎるパーティテーブルも
ものすごい数の食器やカトラリーも
こだわって買ったソファや椅子も
まだ値札を取っていない高級ブランド服や靴も・・・
全部残っているのに、あの人がいない。

あの人が帰ってこなくなった家で一人、
魂の抜けたじゃすが只々時間を忘れて泣いていました。

何日も何日も。

夫は実家に身を寄せていました。
じゃすとの生活に疲れてしまったそうです。

ある日の朝、別居中の夫から電話がありました。
アメリカに出張しているハズなのに、何の用かしら?

「今メキシコにいる。テレビをつけてみて!」

そう言われて見ると、9.11同時多発テロの映像でした。
前日にメキシコに入ったけれど、テロが起きて
アメリカにすら戻れない。

もしかしたら、日本に帰れないかもしれないというのです。

その時じゃすは、「そんなの知らないわよ!」と。
じゃすを捨てて家を出て、一体私に何を言ってほしいの?
こっちはそれどころじゃないのよ、そんな言葉を
彼に浴びせたと思います。

完全に被害者意識で彼を見ていなかったわたし。

あの時、彼の身を案じてあげていたら。
これまでの態度を反省して、とにかく無事に帰ってきてと
言っていたら。
私や家のことは心配ないから、
テロが収まるまで無事でいてと言ってたら
また事態は変わっていたのでしょうね。

大好きだった夫に感謝できず、
食べ物やお金の本質もわからず、
自己チュー極まりなかった当時のじゃす。

これら全部が思い出すだけで悍ましい過去です。

50年間うまくいかなかった原因

5歳の火傷さえなければと何度考えたことか。
でも火傷に意味はないとわかりました。
じゃすが通る道だったのだと。

けれども離婚は自分次第で防げたのかもしれない思うと
別居から子宮全摘出までの約10年間
自分の行為を悔やみ続けました。
夫にあぁすれば良かった、
こんな風に言えば良かったなどなど。
簡単には結婚生活をふっきれなかったのが本音です。

当時わたしは良い妻を演じていました。
大好きな人の自慢の妻になりたかった。

でもその思いが一番イケなかったと
今ではわかります。

彼に「いつも肩に力が入ってるよね」とか
妹にも「生きてて疲れない?」と
言われ続けた意味がようやくわかりましたが
全ては後の祭りでした。

子宮全摘後に食事を変える

手術後の後遺症なのか、術後1年経っても
体調が回復しないどころか悪くなってるのを
深刻に受け止めたじゃすは、
ある時から食事を変えてみました。

そこから徐々に体も人生も
回復してきて今に至ります。

特技(自慢バナシ?)


じゃすの重々しい過去を
ずらずら書いてしまいごめんなさい。

ここから気分を変えて近年の様子です。
(ワンコとの暮らしは関西に引越す前の靜岡時代です)

2016年頃から、急激に腕を上げているのが
「四つ葉のクローバーを見つけるワザ」です。

ワンコとお散歩で歩いていると、
道端のクローバーがなぜか無性に気になるのです。

ふと見ると、なんと一本目に見た葉っぱが四つ葉でした。
うそーと思って、二本目も四つ葉。
えええ~と思って、三本目も四つ葉。。。

これは夢なのか??はじめは信じられませんでした。
その後面白くなって、他も見てみると、

これまで見たこともなかった
五つ葉や六つ葉まで見つかりました。


珍しい五つ葉


こっちも五つ葉

こんなことが一度や二度ではありません。
自分でも最初は驚きましたが、
最近ではこれが普通の毎日なんです。

四つ葉を必死に探すというよりは、
あちらのほうから目に飛び込んでくる感覚です。

気づくと、そこにある。

まるで私に見つけてと言わんばかりに。


四つ葉と五つ葉の二連発

見つかるのは、偶然通りかかった田舎のあぜ道で
ちょうどお座布団ほどのこじんまりしたスペースが多いですね。


座布団ほどの一角に四つ葉の大群が

広大なクローバー畑で四つ葉を探すのではなく、
四つ葉の産地を見つけちゃったという感じです。

四つ葉の産地自体をあちらこちら
複数個所で見つける生活も2年目に入ったので、
相方に「じゃすの特技としてブログに書こうかなー」と言ったところ、
「ワンコが四つ葉のあるところに連れてってくれるんでしょ?」と。


不思議な力を持つワンコ?

そっか!いつも四つ葉を見つける時にはこの子が一緒でした。
じゃすの特技なんじゃなく、
本当はワンコが「ほれっ、ここだよ」と
花咲かじいさんの犬バリに教えてくれていたのかもしれません。

さんざん四つ葉みっけの自慢話をしましたが
ワンコのお手柄だったのかもということで、
最後に〆の六つ葉画像を載せてこの話を終わりたいと思います。^^;


これまでの最高峰:六つ葉

はぁ、のどかだ。笑

あ、ちなみに四つ葉を
たくさん見つけても採ったりはしません。
キャッチアンドリリースっていう感じで、
記念写真を撮るだけにしています。

後日再びその場所を通った時には、
有無は関係なしに
「四つ葉さんオハヨー」と声をかけます。
そうすると新たな四つ葉が
目に飛び込んでくるというパターンですw

波乱万丈だった前半の人生

前半50年はつらく苦しく重たかったなと
今回書き出してつくづく感じています。

けれども書いて良かったと思います。
ここから全てを変えるからです。
もちろん自分の力で。

生まれ変わるといっても
決して大げさではなく
それほどまでに
ガラリと変えたいと思っています。

自分でもこれからどこまで変われるのか
すごく楽しみでもあり、
同じだけ恐怖も感じています。

だって、これまでの自分が
まるごと存在しなくなるかもしれないからです。

「人は生きながらにして、何度でも生まれ変わることができる」
といいますしね。

父も「おまえは火傷で一度死んだも同然だった。だからこそこれからは何でも死ぬ気でやってみろ。」と言いました。中学の剣道で何度この言葉を聞いたことか。一旦死んだ気になれば、何も怖いことはないよと言いたかったのかな。

大火傷の時と子宮筋腫で重症貧血の時の二回、じゃすは死にかけました。しかし苦しみながらも50年生きてこれました。ここからは過去の自分を一旦全て消し去り、クリアになった状態で新しい自分を自分の手で創ります。

さて、人生後半がどんな展開になっていきますか。ワクワク楽しみです。(恐怖も楽しんじゃえーってことですね)ここまでお付き合いいただきありがとうございます。

じゃす

これまでの経過:
2011年8月 五次元ワンコと出会う
2011年9月より 五次元ワンコ&相方と同居
2013年11月 別宅を借りる
2013年11月より ゾロ目を頻繁に見出す
2013年11月より 右手中指の第二関節下に突然ホクロが出現
2016年3月中旬 実母肝内胆管がんを発症
2016年3月中旬 時空力大阪セミナーに参加
2016年3月中旬 大阪サムハラ神社に参拝
2016年3月中旬 相方の暴力で胸を強打
2016年5月初旬 別宅を引き払う
2016年5月中旬 49歳になる
2016年5月下旬~10月 母と頻繁に会って実家の断捨離
2016年秋頃より 四つ葉のクローバーを度々見つける
2016年12月下旬より 言霊学を学ぶ
2016年12月下旬より 神道を学ぶ
2016年12月末 「君の名は。」を連続で見出す
2017年2月中旬より シンクロニシティが頻繁に起こる
2017年4月中旬 言霊発信機を手にする
2017年5月中旬 50歳になる
2017年5月中旬 ゼロ磁場で運命の出会い
2017年5月末 原因不明の体調不良(腰の痛み、歪み)
2017年5月末 食を大幅に変える
2017年6月中旬 身延で食の合宿に参加
2017年7月初旬 熊野詣をする
2017年7月初旬 一旦死んで生まれ変わる体験
2017年7月中旬 キーパーソンとつながる
2017年7月中旬 仲間ができる
2017年7月中旬 仮想通貨を知る
2017年8月中旬 シンクロニシティが連続で起きる
2017年8月下旬 仮想通貨を始める
2017年10月初旬 大祓が起きる
2017年11月末 靜岡を卒業
2017年12月より 関西に拠点を移す
2017年12月末 北九州で学ぶ
2018年1月下旬 一週間の母付き添い
2018年2月中旬 愛車を手放す
2018年2月下旬 実母死去
2018年3月初旬 実母通夜葬儀参列
2018年4月中旬まで 忌中

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